平家の威光は都を被い、平氏にあらずんば、人にあらずとまでとりざたされた頃のことである。都に一人の白拍子がいた。名を妓王という。そのみめかたちの美しさと、舞のうまさとでは、右に出る者がないと言われた。妓王が歌い踊る時には、多くの者たちが群れ集い、噂は噂を呼んで、いつしかその評判は、時の太政大臣、平清盛の耳にまで達したのである。清盛入道は、この時、天下を掌の中に握り、一門の権勢は揺るぎもなく、何一つかなわぬ望みはないといった、得意の絶頂にあった。館にある時は、興のおもむくままに、どのような遊びでもできた清盛は、少々退屈していた所である。
「ほほう、舞の名手。みめうるわしく、うぐいすのような声で歌うとな。おもしろい、屋敷へ
つれてまいれ。」
こうして妓王は、天下人の前で舞うという、この上もない栄誉を手にする事になった。
それは、ある春の日であった。うららかな陽気に誘われて、人々の群がる都大路を、妓王は、
清盛から遣わされた牛車に乗って、西八条の館へと向かった。妹の妓女も一緒である。
「白拍子の身では、こたびの西八条殿のお召しは大した出世。当代一流の白拍子と認められたも同じこと。ここを先途と、力の限り舞わねばなりませぬぞ。」
母の刀自からは、出かける前に、よく言い含められている。何と言っても、まだ十七の娘のことだ。胸は早鐘を打つようである。
「ねえさま、どうぞ、お心を軽く持って、いつものように楽しげに舞ってくださりませ。」妹の妓女は、姉の気持ちを鎮めようと、さりげなく心を使う。御簾ごしに見える、大路をひしめきあうようにして進む人々も、心なしか、袖ひきあって、「あれが妓王じゃ。」「西八条殿のお召しじゃそうな。」と、囁き合っているかのように思われる。
もしや、とんでもないしくじりをしでかさぬであろうか。今まで、どんな時でも、そのような事は考えずに、せいいっぱい舞ってきたのに、今日、今までの何倍も力を出して舞わねばならぬ時になって、つまらぬことが気になるものだ。
妓王があれこれと心を乱している時、車は、とある庭の小柴垣の側を通り掛った。「あれ、ねえさま、かわいらしい花が。」
妓女は手を伸ばすと、庭先から、小さな花をつと手折った。牛車の薄暗がりの中に、黄色いその花は、春の息吹を運んで来てくれたようである。山吹に似た姿の、小さなその花を見ているうちに、
妓王は、幼い頃聞いた歌を思い出した。
野の花は
ものおもわずに 咲き初めて
ものおもわずに 咲き匂い
そうだ、私も、太政の大臣のお招きだからとて、心をはることはないのかもしれぬ。街で、歌い踊っていた時と同じ気持ちで舞えばいいのだ。妓王は、気持ちが鎮まるのを覚えた。
やがて、車は、静かに、西八条の館へと着いた。(続く)