連載小説 第二回 「妓王」〜「平家物語」に基づく〜

 今までに招かれた、どの貴族の館の門よりも大きな構えの、どっしりとした門をくぐり、たくさんの侍の行き来する表をとおって、ひんやりとする北向きの小部屋へ案内された。やはり、どんな立派な館でも、白拍子風情の案内される部屋といえば、このようなものかと、なれていることとはいえ、心の寒くなる思いである。しかし、鏡にむかうと、妓王の顔は、にわかに生き生きとしてくるのである。「妓女、あそこのところではね、鼓は、ぽんぽんと、軽く打っておくれね。そうしなければ、軽く舞えないのだから。」妹と打ち合わせをしながら、化粧をし、衣装を付ける。朱の水干(すいかん)が鮮やかである。軽くひとさし、鼓にあわせて舞ってみてから、妓王は、仕上げに、唇に紅をくっきりと引いた。

 「妓王殿、そろそろ時刻ですぞ。」案内の老女にしたがって、長い廊下をしずしずと進む。いく曲がりもするうちに、人のさんざめきが次第に高く聞こえてきて、とある角を曲がると、にわかに、あたりが、ぱっと明るくなり、黄や紅や水色の、さまざまな衣(きぬ)の色が鮮やかに目を打つ。大勢の高貴の人々の目が一時に注がれる中を、少しも、ものおじせず、妓王は、前に進み、一段と高いところに座った、坊主頭の人の前に平伏した。

 「そちが、妓王とか申す、噂に高い白拍子じゃな。顔を見せい。」妓王は静かに顔を上げる。清盛の眼には、桃のような頬をした、おだやかな眼の色の美しい少女が映る。妓王の眼には、あらゆる苦労を経て、権勢並びなき地位にまで上がった男の、自信ありげな、不敵な眼の色と、きかぬ気の口元が映る。「なかなか美しい女子(じょし)じゃの。年はいくつにあいなる。」妓王は静かに口を開く。「十七にございます。」「十七か。」入道は、物思う目付きになる。若かりし頃のことを思い出しているのでもあろうか。荒馬に乗って野を駆けていた、十七の春の頃を。この天下人のまみの中に、ふと、妓王は、何か、寂しいかげりのようなものを見たと思ったのである。気をとりなおした入道は、高らかに言い放った。「舞え、舞え、ひとさし陽気に舞ってくれ。」

 妓王は舞った。春の野に咲く花のように、可憐に、あでやかに。その声は、ひばりの声にも似て、うららかで、楽しげであり、歌に合わせて、袖が、春の風に誘われるかのように翻(ひるがえ)った。いつしか、居並ぶ人々は、幼かった日の思い出の春の中へと誘われて行った。何の屈託も無く、思う存分、心ゆくまで遊びまわった春の日の野辺へと。

 やがて、踊りは、潮の引くように、静かに終わっていった。人々は、ほっとため息をついて、我に返った。あちこちで、賛嘆の声が聞こえる中で、妓王は、じっと平伏していた。やがて、館の主(あるじ)のあまりの沈黙に耐えかねて、そっと顔を上げた妓王は、思いがけぬ光景にぶつかった。あの、今をときめく太政入道(だじょうのにゅうどう)が、そっと目頭をぬぐっていたのである。(続く)

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