連載小説 第三回 「妓王」〜「平家物語」に基づく〜

 「妓王、妓王。」入道は、二言目には妓王である。妓王なしでは、夜も日も明けぬと言ったところだ。今日は鷹狩りに、明日は歌合せにと、いつも、清盛は、妓王を側から離さない。

 あの春の日から、すでに百日以上も過ぎている。夜、華やかに笑いさざめく人々の群れを離れて、一人、部屋にたちかえってみれば、あの日のことが、まるで夢のようである。

 妓王は、清盛の館に一室をあてがわれ、侍女二人を付けられて、何不自由ない暮らしをすることになった。母刀自にも館からほど遠からぬ所に、一軒の家を賜り、妓女と二人、月々の手当で、これも不自由のない暮らしをすることになったのである。

 「ありがたいことじゃ。いくら、人気があるというたところで白拍子といえば、身分も何もないただの芸人。町の者にすら、芸人風情がと、おとしめていう者もあるというに。それが今は、このような暮らし。見返してやれるというものじゃ。」母は、喜ばしげに言う。そういう母に、まめまめしく仕える妓女を見ていると、街角で、妓女の鼓にあわせて踊っていた頃が思い出されるのである。幼い頃、初めて街で舞ってはみたものの、まだ浅い春に、人出は少なく、ゆっくりと立ち止まって見てくれる者も無いままに、お鳥目は少しも手に入らず、ふるえながら、裏通りの我が家へ帰っていった日があったものだ。都で評判の白拍子となり、天下人、清盛に愛される身となった今でも、冷たい風の中を、肩を寄せて歩いたあの日のことが、ふと脳裏をよぎることがあった。

 清盛は、妓王の前では、一人の弱い男であった。大勢の人の前で見せる、威厳という衣装を、肩から、はらりと落としたかのようであった。清盛は、昔を語り、果たせなかった多くの夢を語った。その夢は、天下を握る今の清盛に比べたら、あまりにも小さなものだったのだが。

 「わしはの、そなたの年頃に、ちょうどそなたのようなおなごに恋した事があった。野原に座って肩を並べて話し合ったこともあったのじゃ。だが、わしの身内に野心というものが燃え上がった時、わしは、そのおなごのことは忘れてしもうた。そして、わしは、このような地位に上ったが、夜半の寝覚(よわのねざめ)に、ふと思うことがあるのじゃ。あの時、あのおなごと結ばれて、平凡な一生をすごしていたらとな。天下を動かすには程遠い所にいるにしても、今日は裏切られはせぬか、明日は闇討ちに会いはせぬかと、びくびくして日を過ごすこともなかったろうに。ささやかな楽しみで満ち足りて幸せな日々をすごしていたであろうものをとのう。」

 そのような清盛を、妓王はやさしくいたわった。心をこめた言葉やまなざしが、春の日ざしのように清盛の胸にしみいり、おべっかばかり聞かされている身には、それがとてもありがたく感じられたのである。清盛は、ますます妓王を愛した。(続く)

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