連載小説 第六回 「妓王」 平家物語に基づく

 清盛の立ち去った後、妓王は虚ろな心で座り込んでいた。
やがて、我に返ると、庭にすだく虫の音が、一際高まっている。夜も更けたのである。月はこうこうと、あたりを照らしている。不思議に、深い悲しみは湧いて来なかった。もともと身分のないものが、不相応な幸せであったのだ。これで良いのだ。静かな気持ちで、妓王は、その夜、西八条の館を出た。

都の西のはずれ、嵯峨野のかたほとりに、小さな庵があった。いつの頃からか、そこに、三人の尼が、住み着くようになった。手作りの品と引き替えに、近くの農家に時折、食べ物を貰いに来るだけで、あとは外へもあまり出ずに、ひっそりと暮らしている。
それが、妓王、妓女の姉妹に、母の刀自なのであった。女たちも初めは、都を離れたわび住まいで、なれぬことも多かったが、やがて、日が経つうちに、かえって、静かなここの暮らしに、安らぎを見出すようになっていた。母でこそ、はじめのうちは、清盛を恨み、「えらいお方は、心が変わりやすいものじゃ。妓王は、おもちゃにされたようなものじゃの。」
と、愚痴をこぼしていたものの、それもいつか静まり、三人は念仏を唱え、手仕事をして、けんか一つせず、暮らしていたのである。

清盛の噂は、このようなひなびた所まで、伝わってきた。
あれから清盛は、仏を寵愛して、ますます奢りたかぶり、上(かみ)をもおそれぬ所行が多いとのことである。翌年の春には、平氏への謀反のかどで、近江中将成正(おうみのちゅうじょうなりまさ)を初めとする、おびただしい人々が、ある者は斬罪に処せられ、また、ある者は、遠い離れ小島に流されたそうである。
それから数年の間は、平氏の勢いは、天にも届かんばかりであった。巷には、入道殿は、主上になりたいと申されたそうなと、ささやく者が現れ、眉をひそめる人が多かった。
しかし、妓王は、そのような噂を知ってか知らでか、すっかり行いすました尼となり、白拍子として、天下の人々の眼や耳を楽しませていた昔があろうなどとは、とても思えぬ程になった。清盛とのことも、今は、思い出となって、胸の奥の方に、眠っているのみである。
妓女も、花のような乙女盛りを、墨染めの衣に包み、母に仕えて、念仏三昧の暮らしである。
母の刀自は、今はすっかり年老いていたが、気丈さは、昔のままである。四季折々の草花や、小鳥の姿に眼を驚かせ、夏の宵は、星空を見上げて、物語などをし、三人は、さびしいながらも、楽しく、肩を寄せ合って暮らしていた。(続く)

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