連載小説 第八回 「妓王」 平家物語に基づく

 女はその晩、ぐっすりと寝(やす)んだようである。寝返りの音一つ、次の間からは、聞こえてこなかった。
 翌朝、まだあけやらぬうちに、妓王が起き出して、朝餉(あさげ)の仕度をしていると、女が起きてきた。
 「おお、気持ちの良い朝ですこと。このような朝は、本当に久し振りです。」 昨夜とはうってかわった歯切れの良い調子である。朝の空気を吸い込んで、頬には赤みがさし、眼がいきいきと輝いている。
 その顔を見た時、妓王は思い出したのである。あの秋の夜、こうこうと燃える灯りのもとに見た顔を。
 「仏、仏殿ではありませぬか。」
女は、はっとして妓王を見た。その眼が大きく見開かれる。
 「そなたは。」
 妓王の胸は、ここ何年もなかった程、打ち騒いだ。一瞬、妓王をこよなく愛してくれていた頃の清盛の顔が胸に去来して、息苦しくなった程であった。

 やがて、仏は、せきを切ったように語りはじめた。
 「清盛様は、私を愛してくださいました。私は、わがまま一杯にふるまいました。清盛様の頬を打ったこともあります。けれども、清盛様は、笑っておいででした。次第にお忙しくなり、私に会う時間は、少なくなられましたが、おいでの時はいつも、生気に満ち溢れたお顔をしておいででした。私は楽しかった。天下に采配をふるうお方に、この上もなく愛され、何もかも、したいほうだいでした。けれども段々に清盛様の眼は、異様な程、熱っぽくなってまいりました。おしまいには、私には見向きもされなくなり、何かに熱中されておいでのようでした。それが何なのかは、私風情にはお打ち明けになりません。
 ところがある夜、風邪気味だと言って、床に伏されてから、どっと寝付いてしまわれました。一族の方々がお集まりになられ、私など殿様のお側には、近寄らせて貰えません。屋敷のすみに追いやられてしまいました。
 二、三日たってから、館の中がにわかに騒がしくなり、馬の足音が、ひっきりなしに出たり入ったりいたします。もしやと、騒ぐ胸を押さえておりますと、その宵のことでございます。清盛様の北の方、二位殿が、突然おこしになりました。私はびっくりして、その場に平伏いたしました。北の方ともあろうお方が、このようないやしい側女(そばめ)の部屋に入って来られようとは、全く予期していなかったことでございました。
 二位殿は、静かに言い放たれました。
 「清盛は、ただいま、息をひきとりました。」 (続く)

back home