夜の冒険

 私の書棚に「夜の冒険」という本がある。すっかり黄ばんでしまっているその本は、 昭和29年に出版された翻訳の探偵小説だ。巻末の江戸川乱歩の解説によると、スエーデンの作家、S・A・Duse(1873-1933)の作品のドイツ語訳を、小酒井不木という人が訳したそうだ。出版時より30年くらい前に訳され、当時の探偵小説雑誌「新青年」に連載されて好評だったとのこと。若い頃、古書店で見つけ、題名に魅かれて購入したが、そのまま積読になっている。その昔の夜のスエーデンに、いったいどのような冒険物語が繰り広げられたのだろう。旅行に出発する前と同じで、本を読む前、内容についていろいろと空想するのは、こよなく楽しい。もっとも、私の場合、この本に関しては、何十年も空想ばかりしているわけだが。
 ところで、私も、ささやかながら、「夜の冒険」といえるものを経験したことがある。あれは、もう10数年前になるだろうか・・・ある夜、集まりに出て、帰りが遅くなった私は、駅前からタクシーに乗った。車が家の前に着き、窓から外を見たところ、誰かが門扉の前に横たわっている。男の人のようだ。俯せになっているので、どういう人か分からないが、家族の一員ではなさそうだ。生きているのか、死んでいるのかも分からない。
 私は困惑したが、支払いのあと、運転手さんに、私が門扉と玄関の扉を開けて中に入るまで見ていてほしい、と頼んで、車の外に出た。死んでいる人も怖いが、もし、生きている人で、急に立ち上がって、襲いかかってきたりしたら・・・と思うと、これも怖い。びくびくしながら、男の人の足元をそっと通り、家の中に入った。
 家族は、もう寝静まっていたので、警察に電話して、状況を話した。間もなく、警察の人たちが来てくれた。玄関の扉を少し開けて、そっと見ていると、男の人は、起こされて、いろいろ質問されているようだ。あ〜よかった、生きていて、と胸をなでおろした。その人は隣町に住んでいる人で、お酒を飲んですっかり酔ってしまい、気が付いたら、ここにいた、ということだ。家の近くには、飲み屋さんなどないのだが、いったいどこから歩いてきたのだろう。警察の人たちは、男の人を車に乗せて、去って行き、こうして、私のちょっとドキドキした「夜の冒険」は終わった。
 それにしても、なにかの言葉の前に“夜の”とつけるだけで、なんと魅力的な言葉に変わることか。「夜のタンゴ」という曲があるが、題名を目にしただけで、華やかな夜の光景が目の前に広がるようだ。つい、曲を聴きたくなってしまう。“夜”をあとに付けて、「タンゴの夜」とするより、よほど魅力的だ。そして、また、「夜の冒険」も、「冒険の夜」より魅惑的だと思うのだが・・・

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