レイトン・ハウス

 

 母方の祖父は、海軍の軍人だった。第一次大戦の時、日本は連合国として参戦したため、駆逐艦で、ヨーロッパまで遠征したそうだ。
 祖父は、いろいろなお土産を持ち帰ったけれど、戦争(第二次大戦)を経て、散逸したものが多く、今、残っているのは、寄港地で買い求めた絵葉書、それに、ナポリで購入したというタピスリーなど、わずかなものに過ぎない。
 そのお土産の中に、ルクセンブルグ美術館の画集がある。ばらばらになっていたので、長い間、どこの美術館の画集かはっきりしなかったのだが、やはり海軍の軍人だったおじ(母の姉の夫)が、整理してくれた結果、ルクセンブルグ美術館のものと分かった。母と私は、時間のある時、ページを繰って楽しんだ。昔のことだから、カラー写真は少なく、モノクロが多い。ごく少ないカラー写真の中の一枚に、母は、ふと心を魅かれたようだ。題は、“Return of Persephone”。作者は、Frederic Leighton。これは、どういう絵なの?と私に訊ねる。
 描かれている人物は三人。洞窟の入り口のようなところで、若者が、少女のような若い女性を抱きかかえ、両手を大きく広げて待っている中年女性の腕の中に、少女をあづけようとしている。少女も、両手を、その女性の方に突き出している。三人の服装から考えると、これは、ギリシャ神話の物語の一シーンではないかと思われた。
 いろいろな本にあたった結果、予想通り、この絵は、「ぺルセポネの帰還」という、ギリシャ神話の一挿話の光景だと分かった。ギリシャ神話の最上神、ゼウスと、豊穣の女神、デメテルとの間に生まれた、娘、ぺルセポネが、ある日突然、姿を消す。デメテルの必死の捜査の結果、ペルセポネは、冥界の王、ハーデースに連れ去られたことが分かる。デメテルは、ゼウスに訴えたが、ゼウスは、冥界の王の妃になるのなら、いいではないかと、取り合わない。デメテルは絶望し、腹を立て、どこかに隠れてしまう。その結果、地上は、一年中冬になってしまった。困り果てたゼウスは、冥界に使者を送り、その結果、ペルセポネは、一年の半分を、地上の母のもとで、残りの半分を、冥界のハーデースのそばで過ごすことになった。それ以後、一年の半分が、過ごしやすい気候、あとの半分が、寒い気候ということになったそうだ。この絵には、ぺルセポネが冥界から出て、母、デメテルのもとに戻った瞬間が描かれている。
 この絵の作者、フレデリック・レイトンについても調べた。まだ、パソコンは、普及していなかったころで、当時、出入りしていた、ある女子大の図書館で、”Who’s Who”(人名録)をあたった。その結果、レイトンがイギリスの画家であることと、生没年(1830年〜1896年)、そして、ロイヤル・アカデミー(王立美術院)の会長だったことが分かった。また、貴族に列せられ、ロード・レイトンと呼ばれたことも。これだけのことでも、母は、大変喜んでくれた。
 それから、ずっとあとになって、ある会社のOLだった私は、イギリスに旅することを思いついた。会社の業績が悪化していて、不穏な雲行きだった。今のうちに海外旅行を・・・と考えたのだ。出発する前に、ある出版社から出た「ロンドン物語」という本で、レイトンの住んでいた家が、美術館として公開されていることを知った。「レイトン・ハウス・ミュージアム」という名称だ。行ってみよう!私は、期待に胸を膨らませて、旅立った。
 ガトウィックの空港に着く前、飛行機の窓から、春の盛りのサリー州の田園風景が見えた。絵本の絵のようで、私は、夢心地になった。四月末から五月初めの一週間、イギリスは異常気象のため、陽が燦々と照り、例年の雨や寒さは、どこかに追いやられたようだった。

 レイトン・ハウスは、最寄駅が、地下鉄のハイストリート・ケンジントン、住所は、ホランド・パーク・ロードということだった。
 私のホテルは、地下鉄の駅、アールズ・コートのそばにある。徒歩圏内なので、歩いて行くことにした。レイトン・ハウスのあと、ヴィクトリア&アルバートミュージアムや、ケンジントン・パーク、それに、ケンジントン・パレスにも歩いて行くつもりだった。
 レイトン・ハウスの近辺は、高級住宅地だそうだ。かつては、ワッツや、ロセッティ、ハント、ミレイなどの、ラファエル前派の画家たちが、つどう、サロンのような邸宅も、近くにあったとのこと。1866年、レイトンのアトリエ兼住居として、友人の建築家によって建てられたというレイトン・ハウスは、地味な赤レンガの建物だ。中に入って驚いたのは、一階のアラブ・ホール。スペインのムーア建築にならって設計され、ダマスカス、カイロなどで、レイトンや友人たちが集めた、13〜17世紀のとりどりのタイルで埋め尽くされていて、その上部をペルシャ風モザイクフリースが飾っている。また、床には、黒と白のモザイク装飾が施され、中央には、一枚の黒大理石をくり抜いて、方形の噴水が設けられている。外は、湿気はないけれど、痛いような日差しが降り注いでいたので、ホールの、ひんやりとした空気が心地よく、噴水の音も、気持ちがいい。しばらく、噴水の前に、ぼんやりと、たたずんでいた。ケンジントンの住宅街の家の内部に、こういう空間があるとは、思わなかった。
 そのあと、受付にいた年配の男性と少し話した。「レイトンの絵が、家にある」と言ったら、男性は、びっくりして、「それは大変なことだ。子々孫々の宝物になることだろう」と言う。画集の中の絵、つまり写真だとは、言いそびれた。
 アラブ・ホールの印象が強烈だったため、レイトン・ハウスのほかの部分は、あまり記憶に残っていない。ただ、レイトンの絵が少ないのが残念だった。もっと観たかった。日本に帰ってきてから、「ヴィクトリア朝の絵画展」が、伊勢丹美術館で開かれた。ほかの多くの画家たちの絵に混じって、レイトンの絵も、かなりあった。古代ギリシャの服をまとった女性の絵などが多い。レイトンは、生涯、独身だったそうだが、それらの女性の絵には、品のよいエロチシズムがある。
 この時のイギリス旅行は、天候にも恵まれ、本当に楽しかった。帰国して、母と、おみやげ話に花が咲いた。遠い昔の祖父のお土産がきっかけとなり、レイトンと出逢うことにもなった。
 それから半年ほどして、私が勤める会社は破たんした。もう中年だった私には、辛い仕事探しの日々が待っていた。

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